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ミーコワールド

ミーコワールド

五章

   [五章]

県境の峠に着くと雨は絹糸のように変わっていた。 
近くの山でさえ煙って見え、谷底が濃い霧で見えず、僕達は山を見下ろす場所にいるにもかかわらず、雲の上にいるようだった。
雨に煙った山の景色を見ていると、煩わしい世俗の世界に戻るのが嫌になる。 
じっと眺めていたら「久江もこんな景色を見たのでしょうか」と森本がつぶやいた。 
「僕達は昔、会社をサボって二人でドライブした事があります。良い天気で遠くの山々が重なって、霞んで見えて、久江は
青い空に吸い込まれていきそうだ、と言って涙ぐんでいました。あのずうっと向こうの雲か山かわからない所まで行ってみたい、
と言いましたが僕は黙って久江の横に立っていました」
「そうですか。彼女はきっと幸せな気持ちで一杯だったのでしょう。その頃、梶さんは結婚されていたのですか」
「ええ、結婚して3年くらいでした。彼女も結婚して2年余りでした」
「どうして彼女と結婚しなかったのですか」
「夕べも話したように市民コーラスに来たのはほんの2~3度だけでまともに話した事がなく、名前を聞いただけで、
それも彼女の友達から聞いただけでした。その時あなたの名前も一緒に聞きました。その後、僕の前に現れた彼女は
僕の知り合いの妻だったのです。僕が結婚して半年ほどの頃でした。僕は早まった、と思ったくらいでした」
「そうですか。 運命とはそんなものかも知れませんねえ」
「ところで、森本さんは彼女と結婚しようと思った事はなかったのですか」と聞いてみた。

「僕ですか。 ・・・・・・・・。 ないと言えば嘘になりますが、漠然と僕は一生この子を守ってやるんだ、なんて思春期特有の正義感と
憧れのようなものはありましたねえ。でも具体的にどうという事ではありませんでした」
「そうですか、若い頃というのはそんなものかも知れません。今だったらどうですか」
「今、です・・・か・・・・・・。そうですねえ・・・。久江の顔を見てみないと、何とも判断し兼ねますねえ」
「どうしてですか」
「僕は独占欲が薄いのかも知れません。僕は彼女が幸せな顔で元気に生きてさえいてくれたらそれで良かったのです」
「そうですか。 出会った年齢の違いかも知れませんねえ。僕は何としても久江を自分のものにしたいと焦った事があります。
でも久江は動かなかった。何故動かなかったのか、その頃、男の僕には判らなかった。
他に好きな人がいて、僕は単なる気晴らしの相手でしかなかったのかも知れないと思ったのです」
「あの子はそんないい加減な事はできないでしょう」
「いや、僕にはそんな風に思えたのです。いや、そんな風に思う方が気が楽だった。
でもこんな所まで来て死んだという事を思うとやはり、心の中では真剣だったのかも知れない」
「真剣だったと思いますよ。あの子はグーっと感情を押さえ込む所がある。だから僕は彼女が僕の大学卒業まで待っていてくれると
勝手に思い込んでいました」
「そうですか。 森本さんは勝手な思い込みでチャンスを逃してしまった。約束でもしておけば良かったのに。
自分の思いは言葉で伝えないと相手には判りませんよ。僕は探す努力をしなかった、それでチャンスを逃がしてしまった。
いずれにしても、彼女は僕達のものには、ただの一度もならなかった、という事ですね」
「それだから余計、気にかかるのではありませんか」
「そうかも知れない。僕はこうしてあなたと話していても少しも嫌な気持ちにならない。
森本さんは長い間、彼女と話していないうちにいろんな事を昇華されたのでしょうね。僕はまだまだ心が揺れますよ」
「当然でしょう。自分の近くまで来て死なれたのですから。それも会わずに。ある意味では羨ましいと思いますよ。
でも、他人事として捉えてみると迷惑な部分もありますね」
「そうかも知れない。でも今はまだ日も浅いのでそんな風には考えられない。そろそろ帰りましょうか。続きは僕のアトリエで」

そう言って僕は車のエンジンをかけた。
森本は黙って乗り込んだ。 
森本は前を見詰めたままだった。
家に着くまで何も言わなかった。
する話がないという事ではなくて、起きた時の何かを拒絶するような雰囲気が全体に漂っていて、僕は息苦しくさえあった。
僕はそれでも声をかけてみた。
「森本さん、実際、彼女にいつ、何が起こったのでしょうね」
森本はそれには何も答えなかった、というより、耳に入っていなかったのかも知れない。
家に着くなり「僕はこれで失礼します。家まで2~3時間はかかりそうなので」と言った森本の表情は硬かった。
僕の話の何かが彼をそうさせたのか、それとも別に理由があるのか、僕には判らなかった。
「そうですねえ。良かったらまた来て下さい。お待ちしていますよ」と答える僕に
「本当にまた、来てもいいですか、本当に来ますよ」と真剣な顔で森本は言った。
「嘘は言いません。社交辞令なんて僕には言えません」と答えるとホッとした表情で「ありがとう」と言って帰っていった。 
僕と森本の変わった付き合いがこうして始まった。

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